2011年1月15日土曜日

美談の裏に・・・

先日、心臓移植が必要な福岡市に住む2歳の男の子の募金活動で、無事一億五千万円が集まり、米国にて手術を受けることとなった、との報道がなされた。

この手の話は昔からよくある。

しかし私は、良かったね、と思いながら、昔からこの手の話を聞くたびに、子供心にも何か釈然としないものを感じていた。

このように多額の募金活動が成功するケースの背景には、親が何かしらの社会的地位を持つ場合に限られる、という現実があると思う。今回の例では、親御さんはラグビーの審判で、今年正月の全国高校ラグビーフットボール大会の主審を務めた人物である。

もし、と思う。

この親御さんが、偶然にも失業状態にあったとしたら、今回の募金活動なるものは成功したのだろうか?職にあったとしても、いわゆるフリーターであったら、どうだったろうか?

一億五千万円という金額は、とんでもない大金である(もちろんお金の価値観は人ぞれぞれだから、大金だと思わない人もいるのだろうけど)。

この金額があれば、地球上の何人の子供の命を救うことができるだろう?

募金が悪いとは言っていない。

人が人の命を救うために寄付をする、そのこと自体に文句をいう気はない。

ただ、このような報道を目にして、何も疑問を感じない、というのは、多くの日本人がいかに自分と自分の周りだけしか見ていないか、という証拠ではなかろうか?

世の中には、生まれながらにして命の危機にある子供など、言葉は悪いが掃いて捨てるほどいるのだ。

それは何もアジアの貧困国やアフリカなどの開発途上国に限ったことではない。

日本にだってたくさんいるのだ。

例え命は奪われなくても、生まれながらに難病を抱え、もしかしたら死ぬよりも過酷な命を長らえなけばならない人だっているはずだ。

そのような現実があるにもかかわらず、マスコミは美談として取り上げ、無垢で無知な聴衆は美談に「良かったね」と言い、ややもすれば寄付をしなかった自分に罪悪感を感じたりもする。

だが。

報道は、必要ないだろう。

募金が成功したのなら、ひっそりと渡米させて、ひっそりと手術を受けさせてあげればいい。

それが成熟した社会というものだろう。それが思いやりだろう。

全国ネットで報道されることによって、彼の命には既に「一億五千万円」という「公開価格」が付けられてしまったのだ。

私は、将来この子供が背負うかもしれない重荷を想像すると気の毒になる。

まあ、それは私が心配する範疇のことではないのだけれど。


本当に困っている多くの人が救われないという現実。

人は、それを知らず、あるいは知りながらも、自分とは違う世界の話として目を逸らす。

目を逸らし続けても、苦難は誰の身にも降りかかる可能性がある。

そのときは彼は、彼女はどうするのか?

物事から目を逸らす、或いは思索することをやめる、ということは、そのことへの対処を放棄することに等しい。

報道は全でも善でもない。まして正でなんてあるはずもない。

情報の垂れ流し社会の中で、人もまた情報の受け流しが常となっているように思う。

情報を受け取ったら自分なりに解釈する。思索する。それが健全な人間が住む社会だ。

それができない日本に、とても強い危機感を感じる。

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